「中華圏を知り尽くした人」に昔の台湾を語ってもらった話その1
こんにちは、太太です。
太太ブログを開設してはや数ヶ月。ワタクシ、数年間中国語をやっている(はず)のに、未だ旅行者中国語から抜け出せません。自分に甘い性格が関係しています。そんなヘタレに毎度喝を入れてくれるのがのぶ先生。はてなブログを通じていつも勉強させてもらっています。
のぶ先生(と勝手に名付けた)は、語学のスペシャリスト。中華圏を転々としていたそうで、各地の情報にそれはそれは詳しいんですよ。今回は20年前の台湾を中心に伺ってみました。では、どうぞ♪
20年前の台湾はどんな感じでしたか?
のぶ先生が語学留学していた頃の中国(香港含)は、それはそれは濃かったでしょう
20年前と言えば1997年。私が台湾に初上陸したのはその年の8月だったと記憶しています。 少なくても、香港返還を中国で見届けた後だったことは確かです。
それまでは中国に数年間留学し、どっぷり中国の壺にハマっていた感があります。 腹が立つことなど毎日でしたが、それでも居続けたのは、なんだかんだで中国の水に合っていたのでしょう。
大好きな中国を去り、台湾へ行った理由
イマドキの豫園はスタバがあるんですよ!というか、上海は超都会
理由は2つあります。まず1つ目は、中国と台湾の「二刀流」がレアだったこと。といっても今もレアだと思いますが、昔はもっと希少価値がありました。
日本人の性質の一つに、一つに集中・二股禁止というものがあります。シノロジスト(中国学者)界でも同じで、中国か台湾の「どちらか」 でないといけないという空気が蔓延していましたが、私は敢えて「二股」を選びました。そのほうが将来的にツブシが利くだろうし、自分の視野も必ず広がると。
結果的に、台湾という中華のようで異なる世界を経験することで、中華世界を見る眼が一つ増えました。
司馬遼太郎の影響力
のぶ先生も蒋介石と同じように、この地で中国の方を観たかもしれないですね
もう1つは、司馬遼太郎の『街道をゆく 台湾』です。 それまでは、遠縁がいわゆる「湾生」というのもあり、台湾の歴史は漠然とは知っていました。 しかし『街道をゆく』を読み、台湾に残る「日本」を見てみたいと決心した次第です。
のちの裏話で、『街道をゆく 台湾』は当時総統だった李登輝氏と台湾系華僑の作家陳舜臣氏( 神戸出身)との「作戦」だったということがわかり、私もその策略にハメられた一人ということを知りました。しばらく台湾自体に行ってないので、今がどうなっているかはわかりません。
鉄道がきちんと整備されていない時代だった
イメージ図
何せ地下鉄すらロクに走ってなかった頃でした。あったのは、(R)の1号線と、(BR)の文湖線くらいでした。 それもどちらも部分開業。(BL)の板南線は工事中で、忠孝路は24時間常に工事&渋滞で埃がすごかったですね。
こうして考えると、台北に地下鉄がロクになかった(部分開業なので都市交通の体をなしていなかった)頃を経験した最後の世代かもしれません。
そのせいか、当時の台北は万年渋滞が大問題になっていました。私が台湾に行く前までは、バスも渋滞のせいでほとんど動かずだったのですが、 これについてはある人物によって解決されていました。それについては後述します。 あのバイクと車の山の渋滞がどうなっているのか、20年前の台北と比較して見てみるのも、8月に台湾へ行く時の楽しみにしています。
私がいた1997年は、李登輝氏が現役の総統、次の総統になる陳水扁氏が台北市長の頃でした。 1980年代後半からの台湾の民主化の基本である「自由」がようやく身につきつつも、まだ未熟だった時で、台湾の国会(立法院)の乱闘騒ぎは日本でも報道され、 笑いものになっていました。 私が住んでいた1年間は、政治的には特に目立った動きはありませんでした。
一つ覚えているのは、中華民国の虚構の典型であった「台湾省」 が憲法改正で「凍結」され、事実上廃止になったことくらい。 その時の省主席は宋楚瑜という人でしたが、2016年の総統選挙の時に彼の名前を久しぶりに聞くこととなりました。 「こいつ、まだ生きてたのか!」 これが正直な私の感想でした(笑)。
元日本人が沢山いた
「おす!」「おす!」と話す人々
もう一つ、今と明らかに違うのは、「元日本人」こと統治時代を知る人達が、それこそわんさかいたことです。 何せ国のトップ(李登輝さん)という絶好の現物がいましたからね。
台北や高雄ではあまり会うことはなかったのですが、台中や台南、東台湾(花蓮や台東など)ではそれこそそこら中にいました。 電車の中で台湾人どうしが「おはようございます」 「おす!」 と日本語で挨拶していた光景もふつうだったし (「おす!」には笑ってしまいましたが。「おす」は元々先輩が後輩に対して使う戦前の学生用語でしたが、台湾では1997年当時残っていたということです)、 うかつに日本語が話せませんでした。
当時、台湾に連れてきていた彼女がいたのですが、二人で日本語で会話していると、隣の席のおじいさんが話に割り込んでくることも、珍しくありませんでした。
雷親父だった大家さん
「私の彼女が粗相をしてしまい、申し訳ありませんでした!!!」
それ以前に、台北に住んでいた時の下宿の大家さんが、張さんという「元特攻隊員」でした。 日本語は我々よりはるかに上手く、うっかり 「日本語お上手ですね」 なんて言おうものなら、
「当たり前だ!!!」
「日本は一体どういう歴史教育をしているんだ!!ったく情けない!!」
と怒鳴られていました。彼女が何回か地雷を踏んでしまい、怒鳴られて泣いていました(笑 )。
リアル波平である
張さん、ご存命でしょうかね???
強いてたとえるなら、『サザエさん』の波平さんを近寄りがたくしたような感じでしょうか。私にとっては幼いころ近所にふつうにいた昭和の雷親父でした。 張さんにはいろいろ話を聞きましたが、書き出すととんでもない量になってしまうので、ここでは省略します。
「元日本人」の方々が今は滅びつつある世代だけに、あの時日本語でふつうに会話していた頃が夢かなにかに思えてきます。
当時から夜市や外食の文化というのは根付いていたのでしょうか?
ミャンマー街はわけのわからん文字ばかり(ご飯はおいしい!)
夜市は私が台湾にいた頃からありました。 台北の士林や饒河街観光夜市、台大近くの公館夜市などは既にありました。 その中でも公館夜市は住んでいた所からそれほど離れていないので、よく行った記憶があります。
今はどうかわかりませんが、当時ミャンマーやタイなどからの留学生が多く、ほとんど東南アジア夜市だった記憶があります。 今でも台北市郊外の中和市に「華新街」という、ミャンマー華僑が固まって住んでいるエリアがあるそうですね。 (今ググって知りましたw)
台湾にもある茶碗蒸し
台湾にも茶碗蒸しがあるんだー!
台北以外でも当然各都市に夜市が存在していました。 その中でも思い出に残っているのが、北部の港町基隆の夜市です。 港町なので海の幸が豊富なのはもちろんでしたが、「寿司」「刺身」などの日本語がそのまま残って通じていたことが、強烈に印象に残っています。 中でも面白かったのは、「茶碗蒸し」でした。 「チャワ~~ンム~シ~」なんて気取らなくても、「ちゃわんむし」と日本語のまま通じ、ちゃんと「茶碗蒸し」が目前に置かれました。味もそのままでした。
それから数年後(6~7年後かな!?)、仕事で同僚と台湾出張に行った時のこと。 基隆の屋台で、 「おーし、食事の締めで茶碗蒸しいこか!」 同僚ビックリ。ここ台湾やで!こいつ気でも狂ったか!と言わんばかりの顔でした。
「おじさん、来兩個茶碗蒸しロ巴!」
私は何のためらいもなく注文しました。ほぼ日本語です。 台湾の歴史などつゆ知らずの同僚はビックリ。
「『茶碗蒸し』って、日本語じゃんwww」
いや日本語ですが、なにか。 数分後、我々の前に置かれたのは、まさしく日本の茶碗蒸し。 同僚は何が起こったのかさっぱりわからず、言葉も出ないままただ『茶碗蒸し』を眺めていました。
屋台で好きだったのは、「オアジェン」です。
と、とりあえず今回はここまで!
ありがとー!のぶ先生ありがとー!
さすが長文ののぶ先生です。「さらっとでOKですよー」とお伝えしたのですが、とっても丁寧に答えていただきました。あと半分は次回へ♪
20年前の台湾を知っているのぶ先生。わたくしが知っている台湾とは随分違うのだなと驚きました。今の西門や台北地下街へ行ったらぶっ倒れてしまうかもしれませんwww。「あわわわ、アニメに洗脳されてる」と。来月の訪台後、ブログの記事が楽しみですね。
各項目の詳細はご自身のブログで語ってくださると思います。みなさん、ぜひ、のぶ先生のブログで中国や香港、台湾の情報はチェックしてみてくださいね。本当におもしろいですよ。
のぶ先生のSNS情報
ブログ:昭和考古学とブログエッセイの旅へ
Twitter:BEのぶ (@bjnobu) | Twitter
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